祈り、内なるものとの境界

今年も311が訪れました。
私は、金沢文庫で開かれた
運慶展にて、祈りを捧げました。

源頼朝と同じ時代を生き、
神奈川にもいくつもの
作品を遺している運慶、
その神奈川ゆかりの
慶派仏像が一同に会した
特別展の最終日でした。

特に気になったのは
運慶の仏像の霊験伝説
として知られる
頬焼阿弥陀如来像です。

これは、町局が法師にある疑いから
火ゴテで罰を与えたところ
阿弥陀如来の頬にも同じ焼痕が
出現し、夢枕に阿弥陀如来が現れたという
縁起が伝えられているものです。

その伝説を振り返る時
私たちは、祈りの意味を考えます。
祈りとは、自分の内なる声に
耳を傾けることではないか、と。
焼頬の例は、真偽はともあれ
町局の心の奥にある罪悪感が、
そのような奇跡を見せたのでしょう。

その阿弥陀如来の前で
311の自然への畏怖を
想いながら祈りを捧げると
気のせいか、
阿弥陀如来の左目に
キラリと涙が光っている
ように見えました。

阿弥陀さまも悲しんでいらっしゃる、
それは私の内なる心の声であり
祈りを内から外へと放つ
静かな力を感じたのでした。

引き続き東北の復興と
被災された方々の心の回復を祈り、
自然とともに暮らす私たちの
災害への備えが万全であるように
と願うばかりです。

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