高野山を歩いてきました。
今年、開創1200年を迎えた高野山は、
記念イベントも開かれ賑わっていましたが、
それとは対照的に、
かつて巡礼者たちが歩いた
登山道である、町石道は、
ひっそり静まり返って
あまり人とすれ違うこともなく。
ひとり、山歩きを楽しみました。
しん、とした山中には
樹齢数百年と思われる
杉の大木が林立し、
あちこちから湧き水が滴り、
あぁ、ここは昔から
水が豊かな場所だったんだ、と実感。
湿り気を帯びた森の空気は、
清らかな霊気となって肌を包みます。
空海がこの地を選んだのは、
もしかしたらこの
水、木という豊かな資源に
ひかれたことも理由の一つなのかな?
なぜ、この山を選んだのかな?
重いリュックを背負って
息を切らしながら
ひとり問答を繰り返し
ゴールの大門へ。
昔ながらの道標が点在する
町石道は、哲学の道のように、
己と、自然と、
向き合って考える
そんな仕掛けが遺されていました。
山登りってもともと
自分が無になれるもの、
そこに祈りが加わると
自分や、そこにあるものが
よーく見えるようになる。
そういう仕掛けを通して
昔の人たちは
気づきを得たかもしれないなぁ。
現代の私たちは「無」から
あまりにも遠ざかっていないか?